クロネ

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落ちる。落ちていく。真っ逆さまに。
一瞬なのにやけにゆっくりで、たしかにこの瞬間、僕はいるんだかいないんだかわからないカミサマってやつに心から感謝した。
カミサマ、欲張りを承知でもうひとつ叶えてほしい。
どうかこの四肢が、できるだけ派手に砕けますように。


――生まれたのは、もう少し前だったのだろうけど。
はっきりとした記憶はきみの小さな部屋からはじまっていた。
真っ暗な視界が急にひらけて、まずこの瞳が像を結んだのはきみの顔だった。
そのときのきみの表情ったら! ……ああ、今でも心に焼き付いてる。
「……はじめまして」
恐るおそると言った感じの、少しうわずった声できみは僕に話しかけた。
挨拶をされたのだから返さなくちゃと思ったけど、僕の口はどうしてか頑なに言葉を紡ごうとはしなかった。
それでもきみはまったく構わずに、きらきらと潤んだ瞳で微笑んでいたね。

さあ、ところでここはどこだろう。そして僕は……誰だろう。
そんなことをぼんやり考えていると、きみは横たわっていた僕をまるで壊れ物でも扱うみたいにそっと抱えて、少し高いところに座らせた。きみの目線よりは低いけど、周りを見渡すには十分だった。
ところどころに猫の置物や写真がある、小奇麗なワンルーム。猫が好きなんだろうか。

「よろしくね、クロネ」
きみはぼくの手に触れ、そう言った。クロネ、それがどうやら僕の名前らしい。
きみの手は暖かくて、おおきくて、柔らかくて。僕とは全然違っているものだから、びっくりした。
ここでようやく僕が何者であるのかを理解することができたんだ。きみの親指ほどしかない、動くこともない僕の小さな手。
僕はきみの「人形」だった。

それからの日々は、とても優しいものだった。
毎日欠かさずおはようもおやすみも話しかけてくれるきみ。
「クロネはやっぱり黒いドレスが似合うね」
僕のひらひらした服を褒めながら、僕をひざにちょこんと乗せて、櫛で長い黒髪を梳いてくれる。
どうやら僕は女の子の姿をしているらしい。
まるでずっと望んでいたことのように、僕はきみに身を預けた。人形だから動けないけど、気持ちだけ……。

珍しく窓の向こうにちらちらと雪の舞うある日。
きみはコートとカバンを手に取り、いつものように「行ってきます」と、僕の髪を撫でた。
瞬間。僕の記憶が、はじけた。
ビデオを巻き戻すみたいに急激に、過去へと遡っていく。


……遠くから聞いていた。
顔を涙で濡らしながら「もう生き物は二度と飼わない」と言うきみを。
絞り出すようなその声は、僕がまだ生きていた頃の写真と、その横に置かれた小箱に向けられていた。
僕の体が燃やされ灰になり、残った白い骨だけが入っている箱。黒い毛並みを褒められたあの頃の面影はもう、どこにもない。

悲しみに暮れるばかりのきみが気になって、僕はどこにもゆけないでいた。
行くべき場所があるはずなのに、決心がつかない。
傍にいても、もう、触れられるわけでも気づいてもらえるわけでもないというのに。

ずっとふさぎこんでいたきみだったけど、僕が呼吸を止めてひと月くらいした頃だろうか。
ベッドに腰掛けてなにかの本を熱心に読んでいた。僕はいつもそうしていたように、きみの隣に寄り添ってその本を覗き見た。
紙面を彩るのは、人のかたちをして、ドレスを纏っているガラスの眼をした無機物。それが人形と呼ばれているものだというのは僕でもわかった。
「きれい……」と、きみが呟くのを聞いた。

数日してきみが持ち帰ってきた大きな袋に入った大きな箱。その中に収められているのがあの本に載っていた人形だって、すぐに理解した。
もう生き物は飼わないと決めた寂しがり屋のきみが求めたのは、命を持たない人のかたちを模した存在だった。
きっと大切にされるんだろう。頭を撫でたり、ブラシで毛を梳いたりするのかもしれない。そう、まるで僕がかつてそうされていたみたいに……。

そう思いはじめたらもうたまらなくなって、気づいたら僕は、まだ未開封の箱の中に飛び込んでいた。
記憶はそこで途切れてしまった。たぶん、僕はこの瞬間に新しい存在へと生まれ変わったんだと思う。
次に気がついたときには、なんの記憶も持たないまっさらな、きみの人形になっていた。
人形……僕が入っている箱を開け、きみは少し紅潮した頬で「……はじめまして」と言ったんだ。


生まれ変わったはずなのに、前世の記憶を思い出すときなんて決まってる。
命が終わるとき。
小さな生き物だった頃の僕の終わりはなんだったっけ……。あの日、高熱を出して寝込んだきみに何かできることはないかと思って、換気のために開けられていた窓から抜け出して……そのまま大きな車に轢かれて……小さな僕の身体はばらばらになった。

ああ、そんな僕だから出かけようとするきみに待ち受ける悲劇が、ちょっとだけ見えたんだ。
ドアを開けて雪舞う道を行き、僕と同じように、大きな車に轢かれてしまうきみの姿が。
ありもしない心臓がばくばくと跳ねる音を聞いた。でも今の僕には部屋を出るきみを止める術がない。
まって、そのドアを開けないで。
……行かないで!
心の限りに叫んだら、これはカミサマとかいうひとの気まぐれなのか……。僕の身体のパーツを繋いでいる、内部のゴムがプチンと切れる音がした。
僕は座っていた体勢を崩し、棚から真っ逆さまに落ちて……。

きみがまた泣いている。
カバンもコートも放り投げて、床に打ち付けらればらばらになった僕に駆け寄って、泣いている。
ぼくは何度も「ごめんね」を繰り返してるのに、届かない。
ごめんね、大切な「僕」を二度も壊してしまってごめん。
「クロネ……」
そうだ、きみがつけてくれた名前。黒猫だからクロネ。
ずっと僕を忘れないために、人形にも同じ名前を付けてくれたんだね。

派手に壊れた僕の頭部を震える手で拾うきみから、悲劇の未来が消える。
同時に、僕の意識も消えていく。
今度こそ本当の終わり。行くべき場所にゆかなくちゃ。
分不相応かもしれないけれど、きみの手と、声と、笑顔と……なにもかもが大好きだった。
僕の心の声が届いたのかはわからないけど、きみは首から上だけの僕の髪に、そっと口づけた。

……幸せだったと、僕は思う。


[END]
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