少年デュラハン

-- 5 --



 黒いドアをくぐると、いつもはオイルランプの小さな灯火とごくわずかな朝日が差し込むだけの薄暗い店内が、どうしてかしっかりと照明がつけられ、暖かみが感じられるほどに明るかった。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ、おふたりとも」
 珍しく入口までやってきたカルアはその切れ長の狐目をさらに細めておれたちを出迎えた。
「なんだよこれ、いつもと違わねーか」
 入って早々悪態をつくも、カルアは涼しい顔を崩さない。
 今はまもなく夕食時を迎えようという頃合いだ。窓にしつらえられた遮光の分厚いカーテンがきっちり引かれているので、店内に入ってしまえば外の様子は分からないが、街中はもう十分に日が落ちて宵闇色に染まっている。正確な時間がわからないのは不便じゃないかと指摘したこともあったが、カルアは「外の時間など忘れてゆっくり滞在していただけるようにと」店内に時計を置く気はないらしい。
「妖精相手の時間帯は光が苦手なお客様もやってきますので薄暗くしていますけれど、今は人間の時間ですからね。明るいのも良いものでしょう」
 相変わらず饒舌に語るカルアはバーカウンターに戻り、丁寧に磨いた手元のグラスをひとつひとつグラスホルダーにかけていく。背後にずらりと並ぶボトルの数々も今日は美しくライトアップされ、いかにもな雰囲気をつくっている。
「そうそう、いつも夕方はこんな感じで営業してるのよ。デューはカルアがやってる真夜中の時間帯しか知らないから、新鮮に見えるのね」
 奥の小さな調理スペースからエプロン姿の香坂が出てきて、ようこそ、と笑う。
「お久しぶりです、香坂さん、カルアさん。以前は大変お世話になりました」
 隣で店の変貌ぶりに目を瞬かせていたカナデが、一歩前に出てぺこりと頭を下げる。
 蝶の姿をした妖精が運んできた黒い封筒……バー『メルクリウス』からの招待状がおれのもとに届いたのは、三日前のことだった。――事前にご予約のうえ、ご都合の良い時間にどうぞいらしてください、お料理を用意してお待ちしています――と、実にシンプルな文面だった。
「いいのよかしこまらなくって。奏ちゃん、体調だいぶん良くなったんですって?」
「はい、おかげさまで。病院はもう退院して、週に一回のペースで通院しています」
「良かったわー、心配してたのよ。奏ちゃん病み上がりだからあんまり食べられないかもしれないけれど、消化に良い料理作るから、好きなだけ食べていって頂戴ね。あんたも良かったわね、怪我、治ったんでしょ」
 香坂に背中を小突かれる。思ったより力が強くて、おれは前につんのめった。
「いって。んだよ、おれはついでかよ」
「香坂はどちらのことも心配してましたよ。今回もおふたりを招待したいと言い出したのは、香坂ですからね。私ももちろん賛成しましたが」
 バーカウンターからカルアが補足する。
「そうなんですか。ご招待くださってありがとうございます。僕、こういうお店にちゃんと来たことがないので、嬉しいです」
「喜んでくれてあたしも嬉しいわ。もっともっと喜んでもらえるように腕によりをかけるわよ。さあさあ、立ってないで座って。二人の快気祝いなんだし、貸切だから遠慮はいらないわ」
 愉快そうにくるりと踵を返すと、香坂は奥の調理スペースへと消えていった。
 カルア曰く、人間相手に店を開ける夕方はいつも香坂がバーテンダー兼ウェイトレスで、カルアが調理を担当しているらしい。基本、人間の客にはカルアの姿が見えないから調理スペースに籠って人前には出ないんだそうだ。
 人間相手の営業を終える夜中の二時頃から朝方までは一転してカルアがバーテンダー兼メッセンジャーとして店に立ち、妖精の客を出迎える。その間は香坂は家に帰っていて、朝方に仕込みのため店に戻ってくる。おれたちがごちゃごちゃやっているときに香坂が店のドアを開けたのは偶然でもなんでもなく、朝の仕込みの時間だったわけだ。香坂とカルアがいったいどういう経緯で知り合い、このかたちに落ち着いたのかは知らないが、互いに協力し合う関係であることは聞いていて理解できた。
 ソファのしつらえられたボックス席の向かいにある窓際のテーブル席に、おれとカナデは向かい合うかたちで腰を下ろす。カナデは背筋をぴんと伸ばして、落ち着かなさそうにきょろきょろと店内を見ている。本当にこういう店に来たことがないんだなと、つい苦笑いしてしまう。
「香坂も言ってたけど、別にかしこまるような店じゃねーんだから、気楽にしてろよ」
 向こうのバーカウンターから「それ、悪い意味じゃないですよね」とカルアの声がしたのは聞こえなかったことにする。
「うん。でもなんか、嬉しくて。ちょっと前のことなのに、いろいろ思い出しちゃうんだ。僕はここにいるみんなに助けてもらったんだなって……」
 感慨深げに微笑むカナデ。そうだな、とおれも同意する。カナデに出会って一度は絶望を味わい、最後は何もかもを取り戻せたあの数日間のことは、ずっと忘れないだろうと思う。良くも悪くもこの店は、おれたちにとって特別な場所になった。
「ああ、そういえばオベロン王からデュー宛ての手紙を預かっているんでした」
 バーカウンターから出てきたカルアが、おれたちの席に歩み寄り、細かな装飾の施された小さな封筒を手渡してきた。
「はっ? 王から? なにそれ怖すぎんだろ……」
 もしかしてもう次の仕事の命令か。それとも、このあいだの騒動について何らかの罰が下ったのか……。どちらにしてもいい予感はしない。
 受け取ると、たしかに見慣れた王のサインがしてある。蝋の封印を撫でると封筒ごとほろほろと崩れ去り、中の手紙だけが残った。四つ折りのそれを恐る恐る開き、書いてある文に目を通す。
「なんて書いてあるの……?」
 心配そうにカナデが首を傾げる。でも、書いてある文章は、というか一言は、
「……『良かったね』って」
「え、それだけ?」
 そう、ほんとにそれだけだった。白紙の真ん中に、ぽつりと五文字。あと端っこになんか書いてある。女子が書くようなハートのマーク……。
「ああああ、びびって損した! だからマジでこういうドッキリみたいなことやめてくれよオベロン王はさぁ……!」
「ははは、王はデューで遊んでいるんでしょうね」
 バーカウンターに戻っていたカルアがおかしそうに笑う。しかもちょっとむせてるし。
「他人事みたいに笑ってんじゃねぇよ、一応おまえも当事者だろ!」
「いえいえ、ふふ、失礼しました。でも良かったじゃないですか、ハッピーエンドですよ。ねえ、奏さん」
 カルアが話を振ると、そうですね、と肩を揺らし笑うカナデ。
「カナデまで……」
「私は何となくわかりますけどね、オベロン王のお気持ちが。……さあ、お待たせいたしました、こちらは食前酒です」
 銀のトレイに乗せて運ばれてきた細い背高のグラスが、おれたちふたりの前に置かれていく。なみなみと注がれた琥珀色のシャンパンは細かな炭酸の泡を次々と浮かばせ、照明の光にあたってきらめいている。
「ね、乾杯しよう」とカナデが言う。
 互いのグラスを傾けて軽く合わせると、鈴のように高く透き通った音色が響いた。
「これからも一緒にいようね、デュー」
 グラスを持ったまま、そっと耳打ちをするように顔を寄せ、カナデが囁く。いつもよりも艶めかしい声が鼓膜をくすぐり、みるみるうちに心拍が上がっていく。
「おま……こういうところで……っ」
 ちらりとバーカウンターの方を見ると、カルアは小声で交わされる会話は聞こえないように絶妙な距離を取って、黙々と作業をしている。こういうところは少しプロっぽいと思う。
 カナデはじっと、返事を待っている。覚悟を決めるしかない。おれはいつもカナデがそうするように、真っ直ぐに目を見て、口を開いた。
「……言われなくても、ずっと一緒にいてやるよ。おれが、そうしたいから……」
 カナデが、泣きそうな顔で微笑んだ。花がほころぶように。
 まもなく調理場から良い匂いが漂って、香坂の手により彩り豊かな料理が運ばれてくる。それはまるで、新たに生まれた未来を祝福する花束のようだった。
「ハイハイ、おまたせ! あら、デューったらもうお酒回っちゃったの。真っ赤じゃない」
 わざとらしく香坂が笑い、カナデは潤んだ瞳で微笑んでいる。おれは香坂に反論したけど、すかさずカルアが「おかしいですね、デューはお酒に強いはずなんですが」なんて、しれっと追い打ちをかけてくる。収拾がつかないくらいに賑やかで、きっとそれは、ここにカナデがいるからに違いなかった。
 会話の端々に混ざる、そよ風みたいに穏やかなカナデの笑い声。思えば出会ったときからずっと、耳に残っていた。黒曜石によく似た瞳も、細い腕も、火傷痕や伸びっぱなしの黒髪だって全部愛おしく、失いたくないと思う。
 ちらりと目線を合わせると、カナデは声に出さずに、唇の動きで言葉のかたちをえがいて、照れくさそうにはにかんだ。
 返事をしたくとも顔が熱くて、もうまともに前を見ていられない。カルアや香坂にまた何か言われそうだ。
 でも……この店を出て、ふたりきりになったら、ちゃんと伝えようと思う。
 絶望を覚えて俯いたあの日の自分と、傷つき泣いている幼いカナデに、互いが伸ばした手がようやく届いたような、そんな気がした。
 変えられない過去も消せない傷痕も、すべてを包んで浄化する、穏やかな夜が更けていった。


[END]
Home Index ←Back Next→