少年バンシー

-- 7 --



 真っ白で、眩しい。
 目の奥に痛みを感じて、薄く開いたまぶたを無意識に下ろした。もう一度、ゆっくりと開けると、やはり世界は白かった。
 何もかもがぼんやりとして、思考を巡らせることすら億劫だった。
 私は考えるのを諦め、まばゆさにくらみそうになる目を閉じた。痛みは消え、静寂に包まれた世界のはるか遠くで小さな音がうまれた。それは、途切れ途切れで、ノイズのようだった。
「……ん、……が、めを、……コール……!」
 なんだろう……。それはただの音から、だんだんとはっきりとした声に変わっていった。
「……とさん、せと……ん、聞こえますか、瀬戸さん、聞こえたらもう一度、目をあけて……」
 名前を呼ばれているのか。私は今度こそ、重いまぶたをゆっくりと開いた。白い風景に、見覚えのある輪郭がふたつ、うつっている。
「セトさん……セトさんっ!」
 この声は……。
 ユキ、だ。
 私はまた……。
「……きみを……泣かせて……」
 乾いてかさついた自分の声が、鼓膜に響いた。
「セトさん……! ぼくのことがわかりますか……?」
「先生、瀬戸さんが目を開けました! 早く、お願いします!」
 ユキと遠野さんの声に続いて、白衣を着た男性と女性があわただしく駆け込んでくるのがわかった。うっすらと消毒液の匂いがして、無機質な機械の音が一定の間隔で鳴っている。真っ白だと思っていた世界の正体は、白い天井と蛍光灯の光だった。
 まだはっきりとしない頭の片隅で、私はようやく理解した。
 ここは病院のベッドの上で、私はまだ、生きているということを。

 ベッドを斜めに起こして、瞳孔にライトを当てたり、脈拍や血圧をはかるなどの簡易な検査がはじまった。手足の皮膚をほそい棒状のものでつつかれ、痛みを感じますかと尋ねられる。鈍いがたしかに痛みはあった。さらに手足を動かすように指示されたので、言われた通りに腕を持ち上げようとした。しかし力を入れようとすればするほど震えがはしり、思いどおりに動かせない。異様に身体が重かった。焦らなくていいので、ゆっくりやってみてくださいと言われ、私はできるだけ落ち着いて指示されたごく簡単な動作をこなした。それが終わると男性医師が様々な質問をしてきたので、私はひとつひとつにかすれた声で答えていき、そのたびにもうひとりの女性医師が手持ちのカルテにペンをはしらせた。ひととおりの検査が終わるころには、私は普通に会話をできる程度に安定していた。
 一息ついて改めて向き直った男性医師が言うには、私は五日間ものあいだ原因不明の昏睡状態だったとのことだ。最悪の場合はこのまま植物状態におちいる可能性もあったが、こうして目覚めて会話もできるようになったので、ひとまずは安心だという。
 男性医師は遠野さんのほうに振り返り「意識ははっきりとしているし大きな異常も見当たらないので、しばらくこのままモニタリングして様子を見ましょう」と言った。遠野さんがお礼の言葉を口にして頭を下げると、ふたりの医師も会釈して部屋を出ていった。
 ドアが閉まると、先ほどまで医師の後ろで心配そうに立ち尽くしていたユキと遠野さんが、ベッドのそばに戻ってきた。
改めてよく見れば、ここは個室のようだ。清潔な室内にテレビや洗面台などがひと通り揃っていて、日光がほどよく届く窓際に、私の横たわるベッドが置かれている。少しだけ開かれた窓から風がそよいで白いカーテンを揺らした。枕元ではモニターの付いた機械が静かな作動音をたてていた。私の手首や足首などからいくつも伸びるコードと繋がっている。
「もう、心配したよ。瀬戸さんってば、突然目の前で倒れちゃうんだもの。ぴくりとも動かないし顔も真っ青だったし、ぜんぜん意識も戻らないし」
「すみません。ご心配をおかけして……」
 やはりあのとき、遠野さんは赤毛の少年との戦いの一切を認識していなかった。だから私が何の前触れもなく倒れたようにみえたんだろう。私は彼女に色々と言うべきことがあるはずなのに、何から話せばいいのか、謝罪を口にしたきり言葉に詰まってしまう。
「いいのいいの、瀬戸さんが目を覚ましたならそれでオッケーよ」
 そんな私の様子にはかまわず、遠野さんは屈託なく笑ってみせた。そして、隣に立っているユキにちらりと目配せをする。
「さて、それじゃあ……わたし、ちょっと用事があるから、おいとまするね。瀬戸さんの携帯、充電しておいたからさ、何か欲しいものがあったらいつでも連絡してよ」
 そう言って、サイドボードに私の携帯電話を置いた。ユキが遠野さんのほうを見て、ぺこりと頭を下げる。
「あの、チカさん、ありがとうございます。ほんとうに……」
「んー、ユキくん惜しい! ちゃんづけでいいってば」
 遠野さんは愉快そうにユキの肩を軽く叩き、手提げのバッグを持って歩き出す直前にユキに短く耳打ちすると、「またね」と言いながら手を振って病室から出ていった。心なしか、ユキは動揺しているようにみえる。
 ふたりだけになった室内で、私の体に繋がったさまざまな機械の音だけが静かに響いていた。
「……セトさん、よかった……ぼく……」
 ベッドのそばに置かれた簡素な椅子に座って、うつむきながらぽつりとこぼす。ひざの上で灰色のマントを強く握りしめて、小さな肩が震えている。それがひどく心細くみえて、私は傾斜をつけたままのベッドから無理矢理に体を起こし、力のはいらない腕を懸命に伸ばした。ユキの白い手に触れるとびくりと反応して、伏せていた顔を上げた。とても久しぶりに、ユキの目を真っ直ぐに見た気がする。
「きみは私を守ってくれたんだろう。ありがとう、ユキ」
 とたんに赤い瞳に涙があふれて、桜色の頬をつたっていった。触れていた手にユキのほそい指が絡んで、力強く握りしめてくる。私からも握り返すと、抑えていた感情がはじけてしまったように声をあげて、ユキは泣きだした。
「このまま……目が覚めなかったら、どうしようって……こわかった……セトさん……セトさん……もうどこにも、いかないで……ください……」
「ああ、私はここにいるよ、ちゃんときみの傍にいる」
 もし許されるなら、これからもずっと一緒にいられないだろうか。そう尋ねると、ユキは流れる涙を手の甲でこすりながら何度も頷いた。
「ぼくでよければ、いつまでもあなたを守ります。そばにいさせてください、セトさん」
 涙で濡れた微笑みはとても幸せそうで、私もつられて口元が緩んでしまう。ユキは、あ、と何かをみつけたような声を出して「いつもの静かなセトさんも好きだけど、笑ってるあなたも好きです」と言った。さらりと恥ずかしいことを言ってのけるユキは、天然というよりは、ただひたすらに素直なんだろう。私もそんなユキが、心から愛おしいと思う。私が自然に笑えるようになったのは、そして、ふたりで笑いあえる未来をつくったのは、ユキなのだから。

 私が倒れてから目が覚めるまでのことを、ユキは少しずつ説明してくれた。あのとき、遠野さんが倒れた私を仰向けにして即座に心臓マッサージを試みながら、周りの人に向かって救急車を呼ぶよう叫んだそうだ。処置と搬送が早かったおかげで、こうして大きな後遺症もなく目覚められたのかもしれない。遠野さん、いったい何者なんだろうか。
 そういえば彼女は遅い連休で実家に帰るのだと言っていたはずだ。しかしユキが言うには、病院に搬送されてから今日までずっと、何度も私の様子を見にきていたらしい。病室で物言わぬ私を眺めながら、ユキと遠野さんはいろんな話をしたのだという。
「チカさんはぼくのことがはじめからみえていたんだそうです。ぼくが妖精で、ほかのヒトには見えないことを話したら、じゃあ色々不便でしょ、手伝うよ! ……って、はりきっていました。やさしいヒトですね」
 なるほど、それで遠野さんはユキの代わりに医師と話したり、買い物をみずから申し出たりしていたわけだ。もっとも彼女からすれば私にそこまでする義務はないはずなのに、いったいなぜなのだろうか。その疑問の答えも、ユキは遠野さんから聞いていた。いわく、遠野さんはずっと昔から私が書いていたブログのいわゆるファンだったそうだ。仕事がうまくいかずに落ち込んでいるときに私の書いた文章を読んで感動して、思いきって仕事の依頼をしたら快く承諾されて、そこから仕事もうまく回りだしたのだと。彼女は「いやあ、ようやく恩返しができるよ! だから、瀬戸さんには早く起きてもらわなくちゃね」と明るく言って、不安そうなユキを励ますかのように笑っていたそうだ。
 私は遠野さんに、返しきれないほどの恩を貰ってしまっていたのに、まだお礼のひとつも言っていないことに気がついた。次に会ったときにはちゃんと伝えよう。そして、私もこの恩を忘れずに生きていこうと、強く思う。
 それにしても、どうして私はユキの予言のとおりに命を落とさなかったのだろうか。かすむ意識の中で聞いた赤毛の少年の言葉は、私の死が確実になったという旨を告げていたはずだった。それに、最後に見たユキの姿……。赤く染まったマントが軽々と赤毛の少年を翻弄するさまは、いつものユキからはとても想像しがたかった。それについて尋ねると、なぜかユキは突然に頬を朱色に染めて、視線を逸らした。
「……あの……ぼくたち、公園で……キス、したの……おぼえてますか」
 どういうわけかしどろもどろになりながら、おおよそ質問とは関係のなさそうなことを口にした。言ってから詳細に思い出してしまったのだろう、ユキは私の顔をまともに見られずに、落ち着かない様子で何度も瞬きをした。それは私もたいして変わらず、ユキの気恥ずかしそうな様子も相まって、じわじわと心拍が上がっていく。もちろん、あの日のことは覚えている。後悔はしていないが、少しだけ、良心の呵責があった。ユキからしてきたとはいえ、こちらからもし返してしまったのが……。
「妖精の契約における交わりというのは、厳密には……体液の交換とか、いろんな条件があって……。あのとき、ぼくとセトさんは限定的な契約を結んだことになったみたいです。だからぼくは特別な力を使えたし、セトさんは命を落とさずにすんだのだと思います」
 どうやら妖精の契約とやらについては、ユキにさえ未知のルールがあるらしい。
「念のため訊くが……きみはそれで消えてしまうなんてことは、ないんだな」
「本当の契約じゃなく、あくまで一時的なものですから。あの力も一度だけで、いまはもう使えないです」
「あの赤毛の少年は……」
「たぶんもう現れないと思います。デュラハンはああみえてとても慎重なので、不確定のリスクをおかしてまで二度もセトさんを狙わないはずです」
 そこまで聞いて、私はすこし安堵した。もしまた彼が襲ってくるようであれば、今度こそ私は命を捨てる覚悟をしなければ。これ以上、ユキが傷つくのも、誰かを傷つけてしまうのも避けたい。
 しかし、私の思惑をよそに、ユキは瞼を伏せて寂しそうに笑う。
「大丈夫ですよ、たとえ何があってもぼくが守りますっていったじゃないですか……」
 違うよ、ユキ。きっと、それじゃあだめなんだ。きみと、私は……。
「……これからも傍に居てくれるのなら、知っておいてほしい。きみが私を守りたいのと同じように、私もきみを守りたいんだ。ひとりで戦ったり、抱えこんだりする必要はもう、私たちにはないだろう? どちらかが矢面に立って犠牲にならなくてもいいように、ふたりで協力して生きていこう、ユキ……」
 私はユキの手を取り、こちら側に軽く引き寄せた。ごく自然に、触れたい、と思った。その気持ちが伝わったのか、ユキの赤い瞳もいつの間にか熱を孕んでいる。目を閉じたユキの顔が、息がかかるほどに、近い。
 そのとき、病室の引き戸が静かにすべる音がした。
「ごめんごめん、忘れ物しちゃった――――……あっ」
 扉の取っ手を掴んだまま目を丸くした遠野さんと、視線が合った。一瞬、この場にいる誰も声を出さなかった。
「いや、あの、ほんとごめん……なんか……――うん、忘れ物なんてなかったわ。何も見てないから。お邪魔しましたー……」
 そのまま扉がするすると閉まって、静かになった。
 遠野さん……。あまりのお約束に、私とユキはしばらく無言で、やがてどちらともなく、くすくすと笑い出してしまう。
 幸せだと、思った。どうしようもなく、幸せだと思った。灰色だった世界に赤い花が咲いて、やがて、世界すべてが様々な色でうつくしく彩られていくのを感じていた。
 ユキの手に触れた先から、あたたかい血がかよっていく心地がした。それは大切なものを失って虚ろになっていた心までもを満たしてくれたのだった。
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