少年バンシー

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 翌朝。
 だんだんと大きくなる目覚まし時計のアラーム音で、強制的に起こされた。この音をいつまでも放っておくと結構な爆音になるのだ。
 昨晩は夜中まで作業をしていたせいで、寝覚めが悪い。寝不足だ。私はふらつく足取りでベッドから降りた。
 甲斐あってどうにか原稿は書き終わったので、気分だけは軽い。データ送信も済ませてある。あとで校正などの確認のために遠野さんから電話が掛かってくるだろうが、とりあえず山は越えられた。
 ぼうっとした頭で昨日のことを思い出していると、部屋のすみで布にくるまって丸くなっている少年の姿が視界にうつった。
「こんなところで……」
 カーペットも何も敷いていないフローリングの上で、穏やかな寝息を立てている。痛くないんだろうか。昨晩は私がスペアの布団を押入れから出そうとしたところで、この少年はベッドから降りて「ぼくは眠らなくても平気ですから」と言ってきたのだ。寝ているじゃないか。
 このまま放っておこうか、それともベッドに運んでしまおうかと考えあぐねていると、もぞもぞと布の塊――もとい、少年が身じろいだ。ゆっくりと瞼が開いて、眩しそうにこちらを見上げてくる。
「あ、おはようございます……」
「おはよう。妖精も眠るんだな」
「あなたが眠っているのみてたら、なんだか気持ちよさそうで、ぼくも眠くなってきちゃって……。眠らなくても平気なのは、ほんとうなんです」
 もそもそと緩慢な動作で起き上がり、少年はやわらかな笑みを浮かべる。いったいどんな素材でできているのか、くるまって布団代わりにしていたマントには皺ひとつ付いていない。
 私は、そんなものなのかと思いながら、冷蔵庫を開けたり棚からマグカップを取り出したりなどしていた。
「そういえば、きみの名前を聞いていなかった。何ていうんだ?」
「ぼくの、名前ですか……」
 どこか迷いのある気配が漂う。少年の口から、なかなか次の言葉が出ない。
「言いづらい理由があるなら、別にいいよ。ただ、適当な呼び名が欲しいな……。ほら、どうぞ」
 食卓として使っている小さなローテーブルの上に、マグカップに注いだオレンジジュースを置いた。少年は猫のように近づいて、マグカップの中身をそっと覗いた。
 私は、しまったと思った。つい人と同じように接してしまうが、そもそも妖精というのは飲み食いできるのだろうか。
「これってジュースですよね。うわぁ、ありがとうございます。いただきます」
 まったくもって杞憂だったようだ。あいにく自分用の大きなマグカップしかなかったのだが、両手で持って美味しそうに飲んでいる。
「食べたり飲んだりもできるなんて、ほとんど人間じゃないか」
「これも、しなくても大丈夫なんですけど、美味しいものは美味しいって思うんです。それに、ぼくはエネルギー体なので、口に入れたものをエネルギーに変えると、ちょっと元気になれたりもするんですよ」
「へえ、凄いな」
 感嘆の相槌を打ちながら、私は湯気が上がるコーヒーを持って、ローテーブルのそばに腰を下ろした。
「あの、さっきの話なんですけど、あなたには名前があるんですか」
「そういえば言っていなかったな。私の名前は、瀬戸修史という」
「セトシュウジさん。セトさんですね」
「ああ。きみは、どうしようか」
「ぼくは……。ぼくたち妖精は、特別な立場にいるもの以外に、ひとりひとり名前がついていないんです。種族としての呼び名はあるけど、でも……」
「だったら、つければいいんじゃないか」
「えっ」
 曇っていた少年の顔がぱっとかがやいた。わかりやすい。
「人間だって仮の名前を使うときがある。かまわないだろう?」
「はい! それってセトさんがつけてくれるんですか」
「きみが嫌じゃなければ」
「嫌だなんて。むしろお願いしたいです。ぼく、名前を与えられる特別な妖精さんたちがすごくうらやましくて、あこがれてて……」
 声が弾んでいるのがわかる。ずいぶんと嬉しそうだ。
「そうだな……」
 じっとこちらを見つめてくる視線が痛いくらいに刺さる。期待、しているんだろうな。応えられればいいが、果たして。
「……ユキ、っていうのはどうだ」
「ユキ……」
 赤い目が、大きく見開かれる。一度復唱したまま、動かなくなってしまった。お気に召さなかったか。
「いや、これじゃなきゃ駄目って訳でも――」
 言いかけたそのとき。
「……ユキ。ユキ。ぼくの名前は、ユキ。……いいです。すごく、素敵です!」
 突然に名前を反復しだして、みるみるうちに白い頬がほんのり朱に染まっていく。何だかよくわからないが、喜んでいるみたいだ。
 と、思ったのもつかの間。
「おい、どうした」
 少年、改め――ユキが、肩を震わせて小さな唇を引き結び、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「っ……。すみません、なんだか嬉しくって、むねのおくがぎゅって、苦しくて……」
 すんすんと小さくしゃくりあげながら言う。あまりにも予想外の反応に、私も少し狼狽えてしまう。名前くらいで、とは思うが、決して大げさにふるまっているわけではなさそうだ。
「セトさん。ぼくの名前、呼んでもらえますか」
「ああ、いいよ。……ユキ」
「はい……!」
 涙がたまった目を細めて、ユキは嬉しそうに微笑んだ。
 雪のように白い肌、血液のように赤い瞳、黒檀の木を思わせる黒髪と細やかな睫毛。名前をつけるにあたって私が少年から連想したのは、童話に出てくる白雪姫だった。
 おとぎ話なうえに姫だなんて、二十代も後半の男が発想するにはおそろしくメルヘンに過ぎる。なので、由来は言わないでおく。
 それにしても、泣いたと思ったらすぐに笑ったり、ころころとよく表情の変わる子だ。以前、クライアントの遠野さんに「瀬戸さんは表情筋が死んでますね」とか、いたって元気な日に「何日寝てないんですか?」などと言われたことがある私からすると、羨ましいくらいだった。
 いつの間にか空っぽになっているマグカップを持ったまま、ユキは何かを思い出すように斜め上を向いた。
「……ユキ、かあ。あれですよね、雪って、白くて冷たくて、きらきらしてて……」
「なんだ、見たことがあるんだな」
「もちろんですよ。ぼく、けっこう物知りなんですからね。ふふ」
 得意げに、というよりはけっこうなドヤ顔をしている。
「ぼくのふるさとにも降っていました。このあたりとおなじであまりいっぱいは積もらないんですけど、すごくきれいで好きです、雪」
「きみはどこか別の土地から来たのか」
「はい。飛行機にのって、びゅーん、あっというまです」
 そう言って、ユキは人差し指で空を切ってみせた。
「ずいぶん現代的な妖精だな。もっと、こう……魔法か何かで移動するものだと思っていたよ」
「魔法ですか。ぼくも使えたらいいなって思うときもあります。でも妖精って、そんなに何でもできるわけじゃないんですよ」
 突然、また物悲しそうな表情をする。そして、ちらり、と叱られた子犬みたいな仕草で私の顔を窺った。何だ……?
「ユキ。きみは――」
 そのとき、私の言葉を遮って、携帯電話の高い着信音が鳴り響いた。
「――すまない。……はい、瀬戸です。……はい。そうですね。……ええ、わかりました。じゃあ、そちらに伺います」
 ひと通り話し終えて、通話ボタンを切る。
「今から出かける用事ができた。きみはどうする」
「え、どうするって……」
「ここで待っているか、一緒に行くか」
「ついていってもいいんですか?」
「かまわないよ。何も面白いことはないだろうけど、こんな狭い部屋にいるよりはましかもしれない」
 立ち上がり、空っぽになった二つのマグカップを流し台で洗おうとして、後ろから「セトさん、ぼくが洗います」と、ユキの声がする。
「いい。それよりも、きみは靴があるのか。昨日見たときには玄関に何もなかったが、外から来たんだろう」
「ずっと置いてありましたよ。いまのセトさんならみえると思います。ぼくも、ぼくの身に着けているものも、同じエネルギー体ですから」
「それはよかった」
 もとより世の中すべての物事に関心が薄いのもあるが、ユキの言葉にいちいち疑問を持たなくなっている自分が怖い。洗ったマグカップを拭いて、棚に戻す。それから軽く着替えて、カメラや筆記用具を詰めたメッセンジャー・バッグを手に取った。
「行こうか」
「はいっ」
 玄関扉を開けると、五月の爽やかな風が吹き込んできた。ユキの灰色のマントがひらひらとなびいた。
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